お別れだけが人生だ。でもそんな悪いことじゃないよ

さよならだけが人生だ――という言葉があるけれど、これは正しい。実際我々はいつか必ず別れるからだ。それは性格の不一致、物理的な距離の疎遠に関わらず、死が待っているからだ。

どんな願おうとも、死だけは超越できない。ならばいつか何処かでさよならをしなければいけない。

それは一見すると、悪いことのように思える。さよならだけが人生ならば、じゃあなんの為に出会うのか? そんな疑問が頭をよぎるものだ。

結論からいえば、「良い別れ」をするために出会うのである。この人と過ごした時間はよきものだった――そう思えるように努力し、積み重ねてきたならば、終わりは終わりでもよき終わりになる。

またいつか別れてしまうとしても、そういったよき終わりのために積み上げてきたものがあるならば、きっと何かしら相手に「与え」られているものだ。

それは物理的なものではなく、相手の人生を、日々を、豊かにするようななにかだ。精神的なものをここでは指している。考え方や、問題に対するアプローチや、世界観……といったものだ。

いつか自分が死んだとしても、相手に与えたものが相手を息づかせる。息づいたものがまた誰かに巡っていけると、そう信じられるのならば、さよならはそんな悪いものじゃない。

 

人の生命というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。
だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。
公平に、できることなら誠実に。
そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。
個人的に。

――ダンス・ダンス・ダンス

 

 「さよならの朝に」の別れの一族たる彼女が、最後に手にしたのも、これに近かったんじゃないだろうか。

 

そしてその「与えられ」ものが、自分の中で血肉となっているとき、なにかを見て、感じたとき、ふと――与えてくれた者を思いだすはずである。ヒカルの碁の、ヒカルが伊角さんとの対局で盤上にSaiを見出したのも、そういうことではないか。